日本国内のNECパソコンのシェアが90%を超えた原動力は「PC-9800シリーズ」、いわゆる「98(キューハチ)シリーズ」でした。1982年に発売、後に、その勢いを支えたのがマイクロソフト社のパソコン用オペレーティングシステム(OS)であるMS-DOSです。MS-DOSを日本の市場にあわせて最適化し、「PC-9800シリーズ」のハードウェアで使ったときに最高の性能が得られるようにしたことが、その圧倒的なシェアを支えました。そして、サードパーティ※と呼ばれる各社は、「PCー9800シリーズ」対応MS-DOS用の各種アプリケーションを揃え、まさにクルマの両輪のように、ハードとソフトで大きなシェアを獲得していったのです。
※サードパーティ:コンピュータメーカーが開発販売するパソコンに対応した周辺機器や、そのパソコンで動作するソフトウェアなどを製造、販売する独立系のメーカーのこと。
「98シリーズ」全盛の一方で、マウスを使ったグラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)を持ち、最初にMS-DOSを標準OSとして採用した、先進的なPCとして送り出した製品が「PC-100」でした。
「PC-100」は、まったく新しいコンセプトのパソコンだったため、発売当初から豊富にアプリケーションを揃えるのは難しく、表計算やワープロなどのアプリケーションが最初からバンドル※されていました。そのひとつが、後に日本語ワープロソフト「一太郎」を作ったジャストシステム社による、「JS-WORD」でした。マウスで編集ができるワープロソフトは当時としては画期的なものであり、さらに、JS-WORDに搭載されていた日本語入力システム「KTIS」は、その後、「ATOK」として拡張されていくことになります。
「PC-9800シリーズ」用のアプリが使えないというだけで、商業的には決して大成功とはいえなかった「PC-100」ですが、マウスを使ったGUIや、縦にも横にも使える高解像度ディスプレイなどは、きわめて先進的でした。
世界的なGUIのトレンドは着実に進みます。「PC-100」発売の翌年、1984年になり、米アップルコンピュータからMacintoshが発売されます。さらに1年後、1985年にはマイクロソフトもWindows 1.0を発表します。Windowsはその後、87年に2.0、90年に3.0、92年に3.1と、順次、最新版がリリースされています。
※バンドル:本来は単体のパッケージで販売されているソフトウェアが、パソコンや周辺機器に付属してくること。
「PC-9800シリーズ」はその豊富なアプリケーション群によって、絶対的な地位を獲得していました。「98」を支えたアプリケーションの中でも、特に大きな貢献をしたのが、ジャストシステムの日本語ワープロソフト「一太郎」でした。
1985年に「PC-9800シリーズ」用にリリースされた一太郎は、日本語入力システムとして「ATOK4」を搭載し、アプリケーションであるワープロ部分とは分離することで、他のアプリケーションでも優れた日本語入力を活用できるようにしていました。今、Windows等に標準搭載されている「IME」と呼ばれる日本語入力ソフトは、当時、フロント・エンド・プロセッサ(FEP)と呼ばれ、パソコン用アプリケーションの応用範囲を大きく拡大しました。
「PC-9800シリーズ」は、当初BASIC言語で作られた「PC-8800」用アプリケーションが高速に使えることがセールスポイントでした。とにかくその当時、パソコンで、快適に日本語を扱えること自体が画期的なことだったのです。だからそこを徹底して追求した「PC-9800」シリーズは国民機の地位を得ることができました。
しかし、MS-DOSの台頭とともに様相が変わってきました。MS-DOSのもとに使えるアプリケーションが主流になり、NECではマイクロソフトと協業し、サードパーティ製アプリケーションにMS-DOSを付属させて流通できるようにもしました。今でいうなら、Excelを買うとWindowsがついてくるようなものです。しかも、NECは、バージョンが進むMS-DOSの上位互換性をかたくなに守ったため、サードパーティは安心してアプリを開発することができました。それも「98シリーズ」が国民機化する大きな要因だったといえます。
世の中にはMS-DOSの大きな流れがあり、それがグラフィカルなWindowsに変わりつつある時期、1990年に、日本IBMは「IBM DOS J4.0/V」をリリースしました。これがいわゆる「DOS/V」です。
1981年に登場したIBM PCはその設計内容がオープンだったことで、サードパーティ製の周辺機器やアプリケーションが大量に揃っていましたが、発売の翌年にはいわゆるPC互換機が各社から登場し、その後継機である「PC/AT」が登場する1984年頃には、その設計は世界における事実上の標準となっていました。その世界標準機で、ソフトウェアだけで日本語を扱えるようにしたのがDOS/Vです。DOS/Vの登場とWindows 3.0により、「PC-9800シリーズ」が圧倒的なシェア誇る日本においても、次第にPC/AT互換機が流通するようになりました。パソコンの自作や、海外製のパソコンの個人輸入がブームになったのも、このころです。
Windowsも3.0が不安定といわれながらも、一定の商業的成功を収める中で、当然、「PC-9800シリーズ」も対応を迫られます。ただ、Windowsは「98シリーズ」にとって諸刃の剣でもありました。なぜなら、Windows用のアプリケーションは原則として、ハードウェアを選ばなかったからです。つまり、PC/AT互換機用の日本語Windowsで動くアプリケーションが、そのまま「98」用のWindowsで使えるようになっていきました。逆に、「98」用Windowsで動く日本語アプリケーションも、PC/AT互換機用の日本語Windowsで使えるようになっていったのです。
こうなると、このアプリを使いたいからハードウェアとしての「98」を買うという人々のモチベーションが揺らぎ始めてしまいます。そして、その傾向は、Windwos 3.1がリリースされる1992年頃には格段に強くなり、1995年にWindows 95が登場し、世界的大ヒットとなるころには、世界中のパーソナルコンピュータはハードウェア的にクローンであるのが当たり前になってしまいました。
「PC-9800シリーズ」も、この流れに抗うことはできず、1995年に発売された「PC-9801BX4 」をもって「9801」型番は最後となります。世の中は、ほぼ完全にPC/AT互換機路線に移行してしまったのです。
もちろん、NECも、この世界の潮流を指をくわえてみていただけではなく、1992年には「PC-9821シリーズ」を投入し、初代「PC-9821」の「98MULTI」が世に問われました。そして、ハイエンドには「98MATE」が提供されるようになりました。その後、1994年には、オールインワン マルチメディアパソコン「98MULTi CanBe」の初代機である「PC-9821Cb/Cx/Cf」が発売されます。